第3幕
バブル崩壊 事業再生までの道のり
平成10年 (1998) 11月 |
エピソード 前立腺ガンが見つかるも、早期発見早期治療が功を奏し回復。 |
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平成11年 (1999) 7月18日 |
父、政義 死去 在りし日の炭屋政義会長 父、政義から送られた「3つの教え」。 エピソード 大正13年1月22日に生まれてから75年の人生の幕を下ろす。とにかくまじめで働き者。尋常小学校を出てすぐに日本橋の衣料問屋に丁稚に入ってから、ずっと人のために働いてきた。地頭がよい勉強家で、よく本を読んでいた。 当時の出来事
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平成13年 (2001) |
建設業バブル崩壊はじまる。完工高は依然40億はあったが、約束していた融資が受けられず、約5億の手形が落ちなくなる。それと重なるように大きい現場が次々と完成。資金繰りが極度に厳しくなり、丸政建設受難の日々が始まる エピソード 元請の大手建設会社からの融資を受けることが決まっていたが、元請本体が銀行から大規模な債務保証を受ける状態に陥り、頼みの綱だった融資は結局受けることができなかった。銀行管理になるか、倒産するかの選択を迫られることに。 当時の出来事
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平成14年 (2002) 5月24日 |
東京地裁民事20部に民事再生申し立てが受理される。負債総額は18億円に及ぶ。 エピソード 周囲から様々なアドバイスを受けるも炭屋組から数えると昭弘は3代目の代表。事業を継続してこそ意味があると思っていた。ちょうどその時、民事再生という道があることを知る。三日三晩検討を重ねた結果、民事再生法を申請し、事業を続けながら弁済する茨の道を選択する。当時、中小企業で民事再生の道を選んだのは、丸政建設の他1社だけだった。 当時の出来事
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平成14年 (2002) 5月31日 |
第一回債権者説明会開催 エピソード 民事再生受理1週間後に説明会を開いたところ、200名以上の債権者が集まる。血気盛んな業者も多く、紛糾して収集がつかず。翌週もう一回行うこととなる。罵倒、怒号の限りを浴びながらも、理解してもらうまで話し合いを重ねる日々が続く。 ★民事再生法とは 日本における倒産法のひとつで、主に中小企業の再建を目的とする。2000年より施工された。「破産手続開始の原因の生ずるおそれ」または「事業の継続に著しい支障を来すことなく債務を弁済できないこと」が裁判所に認められれば、債務を大幅に減らし、経営方針や業務内容を見直すことで、事業を継続しながら会社再建を目指すものである。 ★倒産と会社更生法と民事再生法の大きな違い いわゆる「倒産」とは、事業継続が困難になった会社が破産・清算を行い、すべてを「荼毘に付す」ことである。その時の傷は大きいが、時がたてば当時の代表者は、また新しい会社を設立することも、クレジットカードを持つこともできる。 |
平成14年 (2002) 10月23日 |
東京地裁民事20部にて債権者集会にて認可 |
平成14年 (2002) 11月22日 |
東京地裁民事20部にて民事再生確定証明 |
平成15年 (2003) |
第一回弁済 エピソード 銀行から融資は受けられない。今までの取引先も離れ、申請前は40億あった完工高も僅か2億にまで落ち込む。そんな四面楚歌の中で厳しい資金繰りをなんとかこなしながら、第一回目の弁済。以後10回にわたり弁済を行う。 当時の出来事
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平成15年 (2003) |
民事再生申請後、4人と社員とともに作り上げた経営理念。 丸政建設の経営理念を見直す エピソード ピークのときには70名いた社員も、僅か4人に。このどん底の時こそ会社としての経営理念を見つめ直すときだと考え、夜な夜な4人の社員と膝を突き合わせ、丸政建設の未来について話し合う。そして、出来上がったのが『丸政建設の仕事を通して"人様のお役に立つ"』という現在の経営理念である。 東京都外環自動車道 三郷東高架橋南工事 |
平成20年 (2008) |
民事再生申請後、初めての危機 エピソード リーマンショックに建設業界は激震を受ける。その余波をもろに浴び、8億回復していた完工高も約半分に。 当時の出来事
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