まるまさ東北復興物語
居を構え、本格支援に取り組む
石巻の景色に心を動かされ、熱く請われていた仙台の復興支援に乗り出す決意をした炭屋社長。やると決めたからには、中途半端な関わり方はできません。まずは住処を見つけて作業員を住まわせ、地元の人と一緒に作業で来る環境を作ることが先決だ。そう考えて、地元の不動産屋めぐりを始めます。
こんなご時世だ。贅沢はいわない。作業員が寝泊まりできる一軒家でもあればありがたいーーーーー
しかし、答えはすべてNO・・・。
当時は被災者の方もまだ、満足に住まいを見つけられていない状況でした。賃貸物件はすべて被災者優先。いくら支援のためとはいっても、よそ者が借りられる物件などなかったのです。
何件断られたことでしょう。走りながら考える炭屋も、さすがに弱り果てていた頃、倫理法人会のある人の紹介で、地元の不動産屋の社長に会えることになりました。
これはチャンスと事業計画などを熱く伝えたものの、なかなか首を縦に降ってはくれません。なぜなら、建設業界の人間にあまりいい印象を持っていなかったのです。
とても残念な話なのですが、本気で支援しようと訪れる人の中に混じって、被災地で一儲けすることを企む人々も、相当数東北にやって来ていたそうです。そんな荒くれ者たちががどんなことをしたのか、想像に難くないしょう。
それでも縁は異なもの。平行線に思えたやりとりをつないだのは、倫理の架け橋でした。共通の知り合いが倫理法人会に入っていることがわかり、「杉並支部の会長を努める丸政建設さんだったら…」ということで、一戸建てを貸してくれることになったのです。
地震の被害を受けて多少手を入れなければなりませんでしたが、大工仕事などお手の物です。こうして、仙台での生活拠点ができあがり、東京から8人の有志が東北へと旅立って行ったのです。
8名のヒーローを支えたもの
しかし、待っていたのは想像を超える厳しい現実でした。作業も広範囲に渡り、仮設住宅建設のために、杭を打ったり砂利を引いたりする作業があったかと思えば、粉々にくだけた屋根瓦の撤去や、津波の被害に遭った家がリフォームできるように、柱以外全部壊し、汚泥をかき出し、塩素を撒いて消毒するといった作業まで請け負うことになりました。
現場もあちこちを任され、最も遠い現場は気仙沼。やっと見つかった宿舎から、車でゆうに3時間はかかる距離です。作業を速やかに行うためには、毎日、朝の4時半には出発しなければなりません。まだ夜も明けないうちから車に乗り込み、宿舎に戻るのは、いつも夜の9時です。
とはいえ、支給される給金には、早朝手当も残業手当もつきません。これが日常なら、文句のひとつも出てもおかしくない状況だったのですが、「辞めたい」「帰りたい」と言いだす者がいませんでした。それどころか、みな、生き生きとしているのです。
確かに労働条件としては、過酷過ぎるほど過酷です。でも、それを超えてもなおあまりあるものを、作業員のみんなは受け取っていたのです。
それは、現地の方の温かい言葉とまごころでした。
ひどい被害を受け、心身ともにまいっているはずの被災者の方々が、作業員のことを心から気遣いながら
「本当によく来てくれたね」
「ありがとう!ありがとう!」
最高の笑顔で、時には涙を見せながら、毎日毎日語りかけてくれるのです。
この気持ちのやり取りこそパワーの源。確かに肉体的な疲労は相当なものでしたが、カラダの奥底から今まで味わったことのない「何か」が溢れ出していたのは間違いありません。
この人たちの役に立ちたい。役に立てることがうれしい。お金なんか二の次だ。
その思いは、まさに丸政建設の経営理念そのものでした。
人間というものは、人様の役に立つことを実際に経験すると、今までとは違うものが芽生えるのでしょう。この経験は何ものにも代えられない素晴らしいものとなり、彼らは確実に人間としての成長を遂げたのです。
とはいえ、実際の懐事情は火の車。持ち出しの部分も多く、ビジネスとしては次第に成り立たなくなっていきます。喜んでくれる人がいる限り、支援は続けたい。でも、このままではみんないい関係にはならない…。苦渋の選択に迫られた炭屋社長は、2011年の12月、一旦線を引く決心をします。5月から7カ月間続いた復興支援は、こうして一幕目の幕を閉じました。
余談になりますが、復興支援中の作業員の食料等の物資は、横浜の宅配便会社を使って、毎日届けていました。宅配業者もすごいものです。悪条件を乗り越え、毎日きちんと荷物を届けてくれました。その功績が認められ、東北の方の仕事が広がったとか。これもひとつの縁ですね。
広がる東北復興事業
いったん仙台の宿舎は引き払ったものの、東北の方々とのつながりが切れたわけではありません。当時の支援が実を結び、現在では津波の被害にあった南蒲生の浄化センター(宮城県で最も大きな下水処理場)の改修工事や、仙台市内の地下鉄改修工事、住宅の復興工事などを手がけています。
そして、支援の手は福島県の「除染作業」へと広がります。
福島第一原発の事故による放射能問題は、今も記憶に新しいところですが、事故直後の除染作業にあたった業者、作業員ともに問題が多く、事故も多発していました。事故発生当時から、手伝って欲しいとの要請はあったものの、畑違いの現場に作業員を送ってよいものか、炭屋社長は躊躇していました。ちなみに、除染除去や瓦礫除去は環境省の管轄。一般的な建設事業は、建設省、農林水産省、運輸省が管轄です。
しかし、その状況を憂慮した環境省は、除染事業の参入条件を厳しく制限します。要するに、指定された条件を満たす企業でない限り、入札できないような仕組みを作ったのです。
事故から2年が経とうとしていましたが、ようやく基板も整ったわけです。線量も以前に比べて、だいぶ落ち着いてきていると聞いています。協力会社の推薦もあり、「よし、やろう!」と、炭屋社長は新たな支援事業に踏み切りました。
この仕事も、平成30年をもって、もっとも線量が高く計画的避難区域に指定された福島県飯館村での除染作業が完了し、無事に終了しました。
丸政建設の仕事を通して、人様のお役に立ちたい。
人も企業も地域も同じ。一心に打ち込んでいけば必ず「再生」することができる。
そして少しでも東北の皆さんに、元気を取り戻して欲しい。
真の復興、真の再生を祈ってーーーーーー