第2幕
丸政建設創業と2代目就任
昭和36年 4月 |
炭屋組より分離独立。昭弘の父、政義が個人事業主となり、丸政建設を創業 |
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昭和37年 (1962) 4月 |
昭弘、日本大学第三中学入学 当時の出来事
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昭和39年 (1964) 4月 |
日本大学第三高校入学 まだ少年の面影が残る学ラン姿の炭屋社長 当時の出来事
東京オリンピックの様子。友人と連れ立ち代々木体育館に応援に行った写真が、今もたくさん残っている |
昭和40年 (1965) 12月2日 |
丸政建設株式会社設立 父政義初代社長 エピソード トンネル工事(シールド工法)を得意とし、得意の河川横断で名を馳せた。その技術は千葉県のアクアラインをはじめ、イラクやバクダットなど世界各国でも活躍する。 当時の出来事
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昭和42年 (1967) 4月 |
日本大学理工学部土木工学科入学 当時の出来事
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昭和46年 (1971) 3月 |
日本大学理工学部土木工学科卒業 成人式の写真 愛車ブルーバードスリーSとともに。 エピソード 卒業時、大阪本社の大手建設会社2社の内定をもらう。 当時の出来事
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昭和46年 (1971) 4月 |
飛島建設東京支社土木部入社 入社後、初めて担当した現場は京王線初台駅の地下鉄工事だった エピソード 小さな頃から家業にプライドとコンプレックスを感じていた昭弘。朝から晩まで働き続ける両親の姿を見て、大阪に逃げてしまおうと思い、こっそりと大林組への内定も取り付けていた。「オレ、大阪に行く!」と初めて両親に告げたところ、普段は温厚な父政義が珍しく「バカヤローッ!」と大声で怒鳴り、昭弘はすっ飛ばされてしまった。その後紆余曲折を経て、炭屋組がずっとお世話になっている飛島建設に入って一から修行することとなった。 |
昭和48年 (1973) 6月1日 |
昭弘、丸政建設株式会社に入社 エピソード 飛島建設で様々な経験を積んだのち、家業を継ぐべくホームに戻ってきた。 当時の出来事
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昭和48年 (1973) 11月25日 |
結婚 エピソード 沖縄出身の奥様と遠距離大恋愛の末、めでたくゴールイン。沖縄と東京で2回結婚式を挙げる。 |
丸政建設絶頂期の工事現場の数々
昭和50~51年
房総導水現場(千葉)
昭和50~51年
残損シールド(千葉)
昭和50~51年
残損シールド(千葉)
昭和49~52年
フジタ 13号地地下道工事
昭和49~52年
フジタ 13号地地下道工事
昭和53~54年
所沢シールド工事
昭和50~52年
蒲田シールド工事
昭和50~52年
蒲田シールド工事
昭和54~55年
町田駅工事
昭和55~56年
石岡シールド工事
昭和51~52年
シールド工事
昭和55~56年
石岡シールド工事
昭和53~54年
井田幹線工事
昭和55~56年
町田宅地造成工事
昭和55~56年
石岡シールド工事
昭和54年~55年
沼田シールド工事
昭和56年
瀬谷幹線工事
昭和55~56年
吹上幹線工事(埼玉)
昭和55~56年
吹上幹線工事(埼玉)
昭和56年
多摩幹線工事
昭和64年 (平成元年) (1989) |
昭弘、丸政建設 代表取締役副社長就任 平成元年当時のトップマネージメントコンセプト(TMC) エピソード 破竹の勢いで完工高が増え続け、7億が10億、10億が20億と毎年完工高は増え続けていく。 貫通式典の様子 尾久上幹線工事の様子1 当時のパンフレット。このとき初めてカラー版を作成した。 当時の出来事
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平成3年 (1991) |
丸政建設 代表取締役社長就任 エピソード 先代社長の父、政義は会長に。2代目として後を継いだ昭弘は、会社の規模を拡大し資産を残し、人を育て、会社の組織力を強めることを目標に掲げ、猛烈に働く。建設業界及び丸政建設自身も、依然として好調期は続く。 会長あいさつ 社長あいさつ 新社屋落成記念のテレホンカード 新社屋完成&社長交代記念 当時の出来事
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平成10年 (1998) |
丸政建設絶頂期を迎える エピソード 丸政建設絶頂期。シェアを拡大することが世界を制するとガンガン攻めまくり、完工高は70億円以となる。経理の責任者には銀行の現役融資課長を迎え、社員は70人を超えるが、とにかく忙しくて人を育てる暇がないのが悩みのタネだった。 高速鉄道3号線新羽車両基地 当時の新パンフレット |
平成10年 (1998) 11月 |
東京都杉並区倫理法人会入会 エピソード ちょうどその頃、当時の倫理法人会の高島会長に「良い勉強会がある」と誘われて入会。最初は不良会員だった。 当時の出来事
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